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2007-03-01 Thu 20:30
石走る 垂水の上のさわらびの 萌え出づる春になりにけるかも
志貴皇子(しきのみこ) 読み: いわばしる、たるみのうえの、さわらびの、もえいづるはるになりにけるかも 意味: 岩にほとばしる滝のほとりの蕨が、芽をふくらませる春となったのだなあ。 志貴皇子は、天智天皇の息子さん。 名前はいろいろな漢字が使われ伝えられていますが、 万葉集では志貴に統一されています。 お母さんは「釆女(うねめ)」という身分の方でした。 ちなみに、釆女のお仕事は、天皇と皇族の身の回りの世話(食事や着替え)が中心。 地方豪族の姉妹・子女から選出された、みめ麗しい方たちだったそうな。 さて皆さんもご存知の「壬申の乱」。 これは志貴皇子のお兄さん(大友皇子・弘文天皇)と 叔父さんとされる大海人皇子(天武天皇)とのケンカ。 政権争い。 結果は叔父さんが勝つので、天智天皇の息子である彼は、 それ以降「肩たたき」の立場に立たされます。 さらにその後の争いを恐れた叔父さん夫婦(天武天皇・持統天皇)が、 吉野の盟約なるものを半強制的に打ち出し、志貴皇子にも参加させますので、 彼の将来は絶望的なものになりました。(事実上の皇位継承権剥奪) 役職は撰善言司。 皇族・貴族のための教養書の選定事業でした。 つまり、志貴皇子の知識の豊富さは当時随一であったと見て 自然で、どの文献を見ても、歌や学問において非凡な才能の 持ち主であったとされています。 もともと、お母様の身分が皇族ではないので、 皇位継承は難しかったものの、 もし壬申の乱でお兄さんが勝利していれば、 (お兄さんの母親も釆女なので)彼の人生は180度違ったものに なっていたことでしょう。 そんな想いがあったのかなかったのか、知る由はありませんけれど、 史実から見る彼の人生は静かなものであったようです。 霊亀2(716)年薨去。(推定48歳) 770年に彼の第6皇子・白壁王が即位(光仁天皇)した後は、 「春日宮天皇(田原天皇)」として追尊され、ここで表舞台に返り咲きます。 やがて孫にあたる桓武天皇が長岡京・平安京を拓き、 皮肉にも、志貴皇子の流れを汲む天智天皇皇統によって、 皇位は今日まで受け継がれていくのです。 吉野同盟: 跡継争いが起こることを懸念した天武天皇と皇后(後の持統天皇)が、 壬申の乱直前に天武天皇派がたてこもった吉野に6人の皇子を連れて行き、 「違う母を持つが、同じ母から生まれたように慈しもう。 この誓いを破ったら私は死ぬ」と6人を抱き、 自分の子ども(草壁皇子)の将来を脅かさないよう誓約させたこと。 |
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